はじめに:
今変わらなければ、人類もあなたの幸せも、もちません。(続きません。)
今回は、誰かヒーローが出てくれば解決する問題じゃありません。あなたが変わらないと変わりません。
「持続可能な社会」は、これまでの人類の、そして、あなたの生き方の延長線上には存在しません。
現状のあり方によって最適な方法でその場は解決できても、その先には持続可能性はないのです。(これから説明して行きます。)
神様も人間の努力を眺めてきたのでしょう。その努力は、これまでは限られた人だったかもしれません。
これからも人間の努力により、神様の意志に沿うのかもしれませんが、これまで以上に多くの人(全員?)の努力が必要なのかもしれません。
将来が悪くなると思うから、人間は、努力するのではないでしょうか?(人間だから紆余曲折はありますが) ・・・だから、未来が明るいとも言えますが・・・。
話し合うと、大同団結出来ずに分裂していってしまう・・・。とか、
今の自分の環境、仲間内では、順調に改革は進むのだろう(つまり仲間内ではうまくいっているだろうと思えるだろう)が、それでは、持続可能な社会には間に合わない。自分の今の環境、仲間内の外に出て行かなくてはならないと思う。
それは、理解を広げるためや、メンバーを広げるために、積極的に外部と交流することである。
あなたの「悩み」は、直接的か、間接的かの違いはありますが、とどのつまり、社会や人間関係に関わるのではないでしょうか?
自分が認められない、自分の思い通りにならない、自分がより成長したい、自分の可能性を広げたい、自分の能力を発揮したい・・・、成功したい・・・。
そう言う人も、ぜひ、この文章を読んでいただけば、地平が変わる、地平が広がるのではないでしょうか?
また、「知っている」だけでなく、その意味は?そして、実践できているのか?廻りに影響を及ぼせているのか? ぜひ、点検してもらいたいのです。
「出来っこない」と言うなら、「持続可能な社会」も実現出来ないと言うことになります。(バッドエンディング)
これまでは、理想の断片を片耳で聞いていて、実社会に出てみたら、現実に引き戻された、教育・指導されたと言う事だったのではないかと思います。
このところ、森喜朗氏の事件のような、ハラスメント(イジメを含む)や差別の事象が出てきましたが、それは、これまでの現実から、理想を目指す方向に社会は変わり始めたのではないでしょうか?
これまで知識を蓄積してその中から最適解を導き出すのが「優秀」と言われてきたかもしれませんが、これは、AIの方が優秀になります。
予備知識がない方が、優れたアイディアが出てくるのかも知れません。
知識は、ググれば、出てきます。これまでは知識量で優劣があったかも知れませんが、これからは、人々は、対等なのではないでしょうか?
これは、環境だけの問題ではありません。(SDGsの目標も見てください。)
日本だけで言えば、例えば、女性議員比率世界166位と言うのも何かおかしいのです。
政治だけの問題でもありません。会社役員も女性比率が低いです。
環境問題なら、「持続可能な地球」とかですが、環境問題だけでは、この社会がもたないと言う事なのです。
社会がもたないと言う事は、あなたの生活も、幸福ももたないということなんです。
(#文章を短くしたいので、分からない文言は、ググって下さい。)
これに取り組むには、人心さえ変わっていかなくてはならないのです。
あなたが変わらなければ、あなたの幸福もありません。
この文章は、社会や未来のことを論じているのではありません。自分自身がどうあるべきか?どう生きるか?という話です。
変わると言う事は、今までのことを一切否定することではありません。未来に向かって、どのように積み上げるかと言う話です。
極限られた人に任せておく事はできません。
ダボス会議では、「グレートリセット」などと言われ、全ての人が幸福に暮らせるとしていますが、主権があるとは書かれていません。そしてそこには、「ステーク(ストック・シェア)フォルダー」(高額の)が存在しますが、その立ち位置は、明示されていません。(選民?支配層?)
彼らは、政治家より頭がいいです。
そして、市民により、衆愚政治が続くのなら、デジタル専制政治に移行するかも知れません。
また、行政の民営化の先は、行政に政治力が及ばず、私企業が支配することになります。
世界で水道民営化が起こってしますが、これらは、その先駆けです。
成熟と平衡:
資本主義と共産主義は、「成長」が前提です。
この「成長」を求め続ければ、持続可能な社会にはならないのです。
成長しない「成熟」(ゼロ成長で、質を高める)を目指し、先進国と途上国との「平衡」(先進国から途上国への支援)が必要なのです。
現在は、先進国が途上国からの搾取(不公平な取引:例えば安い人件費)によって、先進国は潤っているように見えます。
生産性が高くないと民主主義は成立しません。低いと独裁国家などはなくならないのです。
そして、格差はなくなりません。その格差は、紛争やテロを起こすのです。
一部の人の利益を優先する途上国では、環境破壊が止まらず、世界の気候変動も止まらず、大規模な気象被害によって、人命が奪われ、一次産業(農業、漁業など)に被害を受け、飢饉も起きます。
先進国においても、経済成長が鈍化し、共産主義はみんなに配らなければならないので、先に終わりました(ソ連の崩壊)が、資本主義は、新自由主義によって、一部の富裕層を作ることによって、延命しています。
国家間も国内でも、大きな「格差」が現れているのです。
貧困層は、教育も受けない(少ない)となるので、暴力が止まりません。
例えば、字が読めなければ、新聞も読めませんから、誰かのプロパガンダに簡単に乗ってしまいます。それが紛争、テロに結びつきます。
持続しない社会は、誰一人として、幸福な者を生み出しません。
自分の代は良くても、自分の子や孫はどうでしょうか?
紛争やテロは国境を越えます。難民も・・・。国内でも貧困層が増えることで、犯罪も増え、社会不安が広がります。 オウム真理教のような事件も起きるかもしれません。
もちろん、ある日突然、貧困層に落ちる事はあるのです。(今回のコロナ禍で、自分は思ってもみなかったと言う人が貧困に陥っています。)
これから先、何が起きるか分かりません。自分に無関係なことはないのです。
さらに、自民党改憲案では、国民主権を弱体化させようとしています。
種子法なども大企業に有利なように誘導されているように見えます。
民主主義:
みんなが幸福に暮らせるようになることが、「持続可能な社会」を実現できるのです。
民主主義は、「民」が「主体者」です。
夫々が主体者だから、夫々が個性を持って、夫々が尊重されるのです。生きる権利を持つのです。
(LGBTQ+に関わる人も、障がい者問題に関わる人も、「人間の尊厳」と言いますが、その人間の尊厳とは、どこから来ているのか? 王政や独裁政権では、人間の尊厳などありません。民主主義だから、人間の尊厳が保たれるのです。)
民主主義は、相互に「相手の個性を尊重する」ことなのです。
そうすると、意見がバラバラになりますが、それでは困るので、「議論」が出来ると言う態度が必要なのです。
それは、まず、相手の意見を理解(必ずしも同調することではない)し、少なくとも妥協点、だいたいは共通点、出来れば、相互に理解できる新しい意見、を見出すことなのです。そう言う努力をすることなのです。
自然に「議論」が出来る事はないのです。意識して努力しなくてはならないのです。
議論が出来るから、持続可能な社会をよりよく実現できるようになるのではないでしょうか?
つまり、あらゆる学説や研究成果、あらゆる方法は、100%正しい、完璧と言う事はないのです。
唯一、「議論」を続けることによって、更新されていくのです。 より良くなっていくのです。
ヘーゲル弁証法は、命題(テーゼ)+反対命題(アンチテーゼ)=>統合命題(ジンテーゼ≒アウフヘーベン)で、相互に理解できる新しい意見と言うのは、統合命題とも言える。
ここでは、反対命題、つまり、批判と言うものが大事であると言う事で、非難はダメだが、批判を非難と受け取り、拒絶するのは、間違っている。批判に耐えうるものではなくてはならないし、批判により、新しい意見に昇華させる事は、大変意味がある。
意見を表明するときは、誰でも対等である。(もちろん、年上に敬語を使うと言った見識は必要だろう。)
もちろん、相互に主体者ですから、片方に100%の権利があるわけではありません。相互関係にあるのです。
その権利を誰が担保するのかと言えば、それは、主体者しかいないのです。
だから、主体者には、義務もあるのです。ただし、それは自分が果たすことの出来る範囲でいいのです。(果たす量は、自分に見合った、人夫々でいいのです。)
義務の総和が、権利の総和です。だから、生産性の向上した社会でしか、民主主義は成立しないのです。
ただし、各個人においては、権利と義務は、トレードオフの関係にありません。
夫々が主体者であるには、ルールを守ることと、交代することです。
一部の人たちの申し合わせは、ルールじゃありません。明示されたルールは、全ての人に等しく届くし、それに担保されるのは、情報の公開性でもあります。
(主体者だから、自ら判断するのですが、情報が隠蔽されていれば、正しい判断は出来なくなります。)
また、交代とは、政治だけじゃありません。全ての人が主体者なのだから、交代できない事はないのです。交代しなければ独裁です。
「次に交代する人がいない。」ではなく、交代すると言うダイナミック(動的)が、必要なのです。
次ぎの人がダメだったら、また、次ぎの人に交代すればいいのです。それが、民主主義です。
職業に貴賎はないと言うが、社会の中で、それぞれの人は、役割分担しているのです。
総理大臣も役割分担で、それは、誰でも交代できるのが、民主主義なのです。
(もちろん、正式な手続きを経なくては、総理大臣にはなれません。)
先輩後輩のノスタルジーは重要です。長幼の序も日本の文化です。年功に対して敬意を払うのも当然です。 しかし、その場面と、役割分担した場面は切り替えなければなりません。
多くの人は、切り替えられていないのです。
個性を尊重する:
「個性を尊重する」とは、全ての心身の違いを認めると言う事です。
心持ちの違いは、全て認められなければなりません。民主主義は、LGBTQ+にも関わるのです。
あらゆるハラスメントは、加害側の理由ではなく、被害側がそれを被害(ハラスメント)と受け取るか受け取らないかだけです。
受け取り方は、人夫々、つまり、その人の個性によるわけです。
生物のある種が存続するためには、多様な遺伝子をその種族内に保存する必要があります。
ある環境下では、最適ではない遺伝子も、異なる環境になったときに有効になる場合もあるのです。
障がいがあって生まれたとしても、自分の代わりに種族の宿命を背負ってくれたと思えば、感謝こそすれ、排除するものではありません。
また、障害があるとされない方でも、時期や条件によって、精神に障がいが出る事はありませんか? いや、生まれたときからみんな程度の違いはあれ、軽度な精神障害を持っているのではないでしょうか?
そして、年を取れば、目が見えなくなる、杖をつくと、誰もが障がいを持つようになるのではないでしょうか?
ある日、突然、病気や怪我に見舞われるのではないでしょうか?そうしたら、いきなり、障がいを持つと言う事もありうるのです。
つまり、誰、一人として健常者は居ないのです。全ての人が、時期や程度の違い、現れるところが違うかも知れませんが、何かしらの障がいを持つのです。
社会性のある動物は、すべからくムラ社会構造=同調圧力でやってきたのです。
人類は、絶対王政(王様が主体者)まで来たのですが、生産性を高めた結果、考える余裕が出来て、「王様ずるいんじゃない?」となって、王政を倒して、しかし、自分が次ぎの王(主体者)になろうとせず、全ての人が主体者だと言う体制=民主主義が誕生したのです。
飛行機の発明のように、民主主義は、人類の大脳的進化です。
(と言っても、民主主義の原理は簡単。人間全てに大脳はついているから、大丈夫です!飛行機にはパイロットが必要ですが、民主主義は、誰でも出来ます。自転車に乗るようなものです。一定の訓練をすれば、乗れるようになります。)
民主主義は、理性的なのです。保守は、改革(理性的・理念的)を否定しますが、劇的な生産性の向上は、理性を機能させることをもたらしたのです。
生産性の低い状態では、そのグループの生存を掛けて、全員で同じことに取り組み、そうでないものを排除し、種の保存が正義でしたが、生産性が向上した結果、同じことをぜずに、排除されず、必ずしも種の保存が正義でなくても社会が成り立つようになったのです。
人類の性(さが)、過去の歴史と言ったものからは、民主主義は生まれないのです。
人類の性(さが)、過去の歴史から、未来を占えば、持続不可能なのです。
民主主義は、心身の違いを超えて、全ての人が生きることが出来、全ての人が幸福に暮らせるのです。(そういう理念なのです。)
だから、車椅子が必要な人でも、必要のない人と出来るだけ同じ生活が出来るように駅にはスロープが作られるのです。
女性には、自己実現を目指している間に、妊娠出産と言う、もしかしたら自己実現を中断せざるを得ない状況を迎えます。
だから、女性だけ、自己実現が達成できなくならないように手助けの制度があるのです。
どうでしょうか?見方を変えてみたら、考え方を変えてみたら、ストンと落ちるところがあるのではないでしょうか?
これからのこと:
さて、このごろ、世知辛くありませんか?
恐らく、経済合理性ばかり追求してきたからではないでしょうか?
それは、近代化とも言えるし、資本主義とも言えるでしょう。
何をしたら、何を貰えると言う「交換」と言う価値感だけが重要とされたのではないでしょうか?
それは、効用論とも、功利主義とも言えるでしょう。
そう言うマインドだから、「援交」や「パパ活」に抵抗がないのではないでしょうか?
ポランニーらは、人の交流に、「互酬」と「交換」と「分配」があるとしました。
互酬は、相互に見返りを期待しない行為、つまり、無報酬で誰かに何かをやって差し上げると言ったようなことです。それが、相互的であると。
分配は、独り占めしないで、みんなに分け与えると言う事です。
それは、思いやりとも言えるでしょうか?
民主主義の『相手の意見を理解する』と言う事は、見方によっては、思いやると言えないでしょうか?
みんなの義務を集めて、みんなの権利を担保するのは、分配が含まれているのではないでしょうか?
AI化やロボット化は、一定の頭脳労働と肉体労働を人間から奪います。
これまで、沢山の知識を詰め込んで最適解を出すのが優秀な人材でしたが、ビッグデータを扱うAIの方が優れてしまいます。(ビッグデータは、ある意味、過去のデータです。)
ルーチンワークの肉体労働もロボットに置き換わります。
これから人間に必要な能力は、発見、発明、創造、思いつき(未来)、表現、ヒューマンコミュニケーション、エッセンシャルワーク、手作りと言ったものになるのではないでしょうか?
また、それらに価値を見出していかないとならないのではないでしょうか?
それには、まさに、「個性」が必要です。
また、知識は、ググれば(ネット検索すれば)簡単に手に入れられます。
これからは、前置きの知識がない方が、誰も思いつかないようなアイディアが出るのかもしれません。
すると、教育格差を格差があるほうが卑下する必要はないと言う事です。
それも、知識量に関わらず、人間として対等な関係でもあると思います。
そして、自分自身で考え、自分自身で行動することです。 (空気を読まない)
民主主義は、相互に「相手の個性を尊重する」ことです。
多くの悩みは、自分が尊重されないことにあるのではないでしょうか?
個性が認められないから、「成功」の芽がでないのではないでしょうか?
これまでの人間の行き方は、民主主義的ではなかったのです。
民主主義の原理は簡単ですが、それをあまたに適用する事や、実際に生活の中で展開する事は、気がついたり、自己改革しなければ、実現していかないのです。
「個性を尊重」した結果、意見と言うものはバラバラになります。
だから「議論」が出来ると言う態度が必要なのです。
「議論」とは、まず、相手の意見を理解(必ずしも賛同ではない)し、少なくとも妥協点、大体は共通点、出来れば、相互に理解できる新しい意見と言ったものを見出そうと努力することなのです。
そうやって、全ての人が・・・、多くの人が、「議論」することが出来れば、そして、絶え間なく、その「議論」を繰り返していけば、その都度、よりよい意見にまとまっていくのではないでしょうか?
それは、どの社会(家庭、学校、会社、地域、政治)でも、言える事です。
職場で「議論」が高まっていけば、よりよい職場環境になるのではないでしょうか?
「持続可能な社会」についても「議論」を繰り返していけば、「持続可能な社会」は、現れることが出来るのではないでしょうか?
「議論」(意見を交わすと言う事)は、政治だけでなく、まず、自分自身の生活の中にあると言うことです。
だから、自分が変われば、社会も変わるのです。
しかし、なぜ変われないいのか?次に、民主主義を阻害しているものについて考えてみたい。